知られざる ニュータウン・ストーリー
開拓者の思いを今に 幻の南津鉄道
              なん しん


 都心と多摩、さらに相模原地区を結ぶ大動脈・京王相模原線。今をさかのぼること 七十年前、ほぼ同じルートに鉄道を敷設するための会社が地元の農民らによって設立 された。その名も「南津電気鉄道株式会社」。基礎工事まで進みながら開通しなかっ た裏には、どんなエピソードが隠されているのか。そこに生きた人々はどう動いたの か。幻の鉄道を追った。

 江戸の中頃から桑都として 知られていた八王子の中でも、 生糸の貿易に携わって富を築 いた鑓水商人ゆかりの地、鑓 水は昔ながらの田園風景を今 に残している。「絹の道資料 館」の前の道を北西に二百m ほど行ったところに「鑓水停 車場」と刻まれた石の道標が 立っている。

 これはまぎれもなく「南津 鉄道」の鑓水駅予定地を示す 貴重な資料、と発見者で鑓水 在住の郷土史家・小泉栄一さ ん(80)は語る。「南津鉄道 ができていたら現在の京王相 模原線はなかったでしょうね」。

 昭和二年、当時の南多摩郡 由木村の収入役だった大塚嘉 義さんが旗揚げしたこの鉄道 会社の敷設計画は、多摩市一 ノ宮から京王線で都心に接続 させ、鑓水、横浜線の相原を 経て津久井郡の城山町まで結 ぶもので、ゆくゆくは富士五 湖まで延伸する予定だったと いう。南多摩と津久井の文字 をとって名づけられた「南津 鉄道」は貨車に客車を一台つ ないだもので、主な目的は南 多摩の開発の他に「相模川の 良質な砂利や、木炭等を東京 に搬出するため。関東大震災 後の建設ラッシュでしたから」 と、小泉さんは述懐する。

 永泉寺で株主を集めて設立 総会が開かれ、鑓水にプレハ ブ二階建ての本社が置かれた。 出資したのは当時の豪農や地 主といった階層で、由木村の 人たちの期待を受けながら、 そこかしこで崖の切り崩し等 基礎工事が始まり順調にいく かにみえた。

 しかし、恐慌による絹糸相 場の暴落に養蚕の不振が重な って、苦境に直面した株主た ちは株金の払込をストップ。 窮状に陥った大塚さんは、そ れでも夢をあきらめきれず田 畑や山林など私財を投げ打っ て挑んだが、結局、昭和五年 に会社は潰れ、計画も立ち消 えとなった。


 代々地元の名主で、屋敷内 に七つの白壁の土蔵を持ち質 屋と糸商を兼ねていた大塚家 は、この失敗で家屋敷を競売 にかけられ、村を追われた。 無念の思いを抱いたまま、嘉 義さんは八王子市子安で五十 九歳の生涯を終えた。

 嘉義さんの四男で、多摩市 関戸に住む武道家・大塚重治 さん(70)は、「兄は、村で 当時珍しかった自転車に乗っ たりしていたが、九歳で父を 失った自分はほとんどいい思 い出というのはない。新聞配 達をして生計を支えた時もあ った」としみじみ振り返る。

 嘉義さんが情熱をかけた鉄 道開通の夢は果たせなかった。 しかしながら、重治さんら一 族は、現在の京王相模原線に 似通った未来図を描いていた 嘉義さんを「先見の明があっ た」と誇りに思っており、今 月二十四日の嘉義さんの命日 にも、ぼだい寺の永泉寺に皆 でもうで、墓前で「お父さん は立派だったよ」と語りかけ たいという。

 水ぬるむ春、歴史に思いを馳せて絹の道周辺の散策はいかがですか?

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