牧場のおっさんのページです。縄文土器の宝庫です。歴史と緑の街。俺から見た多摩丘陵の歴史
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★★★★★★多摩丘陵の昔々★★★★★★

多摩ニュータウン地域には旧石器時代から近世までの遺跡が1000カ所もありほとんどが狭い丘陵に集中している。

☆☆☆☆☆けものをとるおとし穴☆☆☆☆☆

10年ほど前に八王子の松木でニュータウンの遺跡調査をやっていた。そこには地元のおじさんやおばさん達がアルバイトで大勢働いていた。トラックからのぞくと地面に小さな穴が無数に掘られていた。その遺跡調査をしている場所は私の親戚の畑あたりだったのでちょっとどんなものが出るのか興味深かった。顔見知りのラーメン屋のおじさんがいたのでこれはなんですかと聞いた。おじさんこの穴なんの穴?これかぁ?これはよ「けもの穴」だよ、エッ「けもの穴」昔の人は山に穴を掘りおとし穴を作ったんだ。おとし穴で多摩丘陵に住んでいるイノシシ、シカをつかまえたのだ。それがそこいらじゅうにあいているが、どうしてこの穴があるのわかるんだ?これはよ、大昔でも穴を掘ると関東ローム層(赤土)を堀りこんでいる。穴がふさがっても埋まった土が赤土ではないのでその色の違う部分をとっていくと穴があったことがわかるんだよ。

縄文時代早期後半(7000〜6000年前)を中心におとし穴による罠猟が盛んに行われた。穴の底には篠や竹の逆茂木(矢の先を上に向けてさしてある。)がしかけてある。

7年ぐらい前だっただろうか、私の住んでいる地区の多摩ニュータウン19住区の事業区域で将来の希望や計画的なものでなく、経済的に国の公共事業として町づくりではなく景気対策として建設業者に工事を発注し、緑豊かな多摩丘陵の丘を「緑の週間」という時期に丘陵の木々の伐採が始まった。遺跡調査の始まりだ。朝早くマイクロバスで建設業者がきて木を切り、表土をはぎ取りはじめる。私の住む目と鼻の先で緑色から地肌の茶色になり遺跡調査が始まり、そこから無数の穴が出現した。それも豊かな自然に恵まれたなかで「けもの穴」の狩りが行われていたのだろう、そして、そこは今も多摩ニュータウン事業区域ではあるが、地肌は剥ぎ取られたまま残されている。そして20数年前の都立高校の計画のままになっている。

☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆お墓☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆

ある日、空にヘリコプターが低空で旋回して飛んでいる。何だろう?と思ったら、遺跡調査で航空写真をとっていたというのだ。ニュータウン事業区域の遺跡調査をしているところで関東地方でも有数の縄文時代の集落と墓が見つかったのだ。私の家から1kmも離れていないすぐそばで重大発見があった。以前、そこは小さな丘で町会会館の裏手の畑だった所で、大昔、たくさんの人が住んでいたらしい。大栗川流域で寺沢川が合流する所の西に山と川の幸に恵まれた日当たりの良い台地で多摩ニュータウン内では最も大きな縄文中期(5000年前)の村で中央広場の墓こう群(墓)があり、それをとりまくように竪穴住居が200軒も重なって出てきたという。そしてここから発見された縄文土器(祭りに使う仮面やふめがめや水差し)が他よりもたくさん、たくさん出てきた。それは今、多摩センターにある東京都埋蔵文化財センターに保管されている。私も興味があった。センターの人によればこの辺は他から比べると多くの人が住んでいたらしい、多摩丘陵の自然は地形が複雑で色々な植生が育ちやすい自然が豊富な所で最適な古代のニュータウンが形成してたらしい。そして今、この場所は貴重な遺跡を残すために土をかぶせて現状保存し、児童公園になっている。まだそんなに時間はたってないが忘れられつつある。

出土した場所は八王子市堀之内でNo72遺跡群です。この集落は12軒の家族が700年続いたと考えられています。
☆☆☆☆☆☆☆八王子城落城☆☆☆☆☆☆☆

多摩丘陵に古くからある家のお墓を調べるとだいたい豊臣秀吉の時代の頃が多い、その頃に八王子城の北条氏につかえていた武士達が秀吉によって落城し、八王子周辺に散らばって農民になり住み着いた人が多いときいている。古くから住んでいる家の墓石を見るとそれがうなづける。今の時代、明治、大正時代も大昔になってしまうが、昔から住んでいる家では江戸時代のことや昔のことが身近に聞けることもあるが都市化によってそのかたちもなくなりつつある。

北条の闘将、北条氏照(うじてる)の居城、八王子城(元八王子にある)は天正18年4月、豊臣秀吉方の前田利家の猛攻にあって落城し、本城の小田原城も落城した。小田原北条と甲斐武田の地侍の多くが多摩の農村に土着し、着農している。

Since 1998/1/10更新

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