長池わくわくWEBTOWNのぽんぽこNetへの気まま投稿(2)
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多摩ニュータウンの京王堀之内駅周辺の地域作りポンポコNetへの気まま投稿メモリー 。
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|堀之内の保井寺と斉藤一諾斎 |酒飲み地蔵 |野猿峠 |由木の里の歴史

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★★★★★★多摩丘陵の地域作り★★★★★★

日曜日にトラックで鑓水に牛糞の堆肥を運んだ。その帰 りがけちょっと思い出してある家に行ってみた。大通りと昔は絹がたくさん横浜に 運ばれてた絹の道、日本版のシルクロードといわれる道が交差するところを南に入る。 (この道は日本の街道として選ばれています。)そこから100Mほど行った右側に とてものどかな家がある。

誰かいるかな、さっき、バス停にたくさんのおばさん達がいたから、きっとおじさん いるだろと思った。 家は閑散としてた。こんにちは、、、右側に納屋があり裏庭に行くと裏の土手から 竹が延びてその先から水が息もせず流れている。その横の土手を昇り、こんにちはと 大きな声でいう。やまぎわの畑からおばさんが出てきた。寺沢の鈴木です。昇さん (父) とこのかね、そうです。おじさんは、、、?さっきまで八王子の俳句の会のみなさん が こられて話をしてたからいるはずなんだけど、、、きっと畑でしょう。 道をはさんだ向こう側におじさんがいた。

寺沢の鈴木です。みなさん元気かね、、ええ、、 俺はちょっとしたときにおじさんを訪ねることがここ、20年のあいだにある。 おじさんはひとりで多摩ニュータウンの開発の中で由木の文化や生活を捨ててはいけ ないと言いつづけ明治11年に作られた茅葺きの家の保存と江戸後期にできた納屋を 残し、その家のまわりの環境を残すために努力され今では都の文化財として残ること が できた。俺は公団や都の開発の波にのまれそうなときが何度となくあった。 そんなとき、おじさんから由木の歴史を何度となく聞きにいったところです。

道ばたにいると小学校の低学年の子供達が、こんにちは、はい、こんにちはの連 続、、、 俺はおじさんと話をしていると心の中ですげぇ、、、うちの親の兄弟のことや3代ぐらい 前までの親戚をすらすら言える。驚いてしまう。俺、、いつにかおじさんの2代目になれねぇ かなと、、毎日話を聞いても無理かな、、、、

小泉のおじさん 小泉栄一さんで小泉屋敷といわれてます。近くには絹の資料館もあ ります。小泉屋敷はおじさんかおばさんに話してから見てください。

松木を野猿街道から入るには堀之内の芝原から大栗川を渡り両側の 田圃を見ながらKさんちの豚小屋の十字路を別所に行かず右にまがる。 ちょっと行くと右側に「シカサン」という酒屋がある。由木の小学校の教科書の取り次ぎ店でもあるのでお店の人は見覚えがある。

それを過ぎると三叉路になっている。左は坂、右は田圃と池がたくさんある。 ここのそばにあるうちは「産婆さん」のうちだ。どんどん坂が急になり 一番高いところに松木では最後まで残った茅葺き屋根のいえがある。坂上という 屋号のうち、、子供の頃はよく遊びにいった。うちの仕事が忙しいときここから由木 東小学校に通った記憶もある。じつは母の実家なのでよくきた。

その道が坂上を過ぎると山道になり別所の蓮生寺や長池に続いている山道だ。

こんどは三叉路を右に行こう。あぜ道のように道が池や田圃をよけるようにある。 ここにたくさんある池は吉田さんちの池、池をのぞくと金魚がうじょうじょいる。 金魚の養殖池なのだ。私は小学校の頃、大栗川でつりをするのが大好きだった。 台風一過の晴れた日に池の川下にでかけると金魚やコイがよくつれた。
吉田さんちは野猿街道のバス停、大竹橋の所を南大沢に向かうとすぐ大栗川を渡る 大竹橋がある。100Mぐらいの右側にお店と金魚のいけすがあり売られてた。 その頃、関東地方でも有数の観賞魚の市場を開くほど盛んにやっていた。 吉田さんのお店をすぎるとさっきの田圃の道とぶつかり西に南大沢につづく

もうひとつ松木といえば私にとっても大事なこと、それは明治時代の人で 井草さんという方がこの多摩で初めて乳牛を飼い始めたことだ。 北海道の酪農や千葉からホルスタインを導入してこの多摩丘陵や多摩全域に 広めた人が松木から出た。多摩の酪農の発祥地でもある。

水曜日はかたくりの家の連中が私の牛小屋の掃除を 手伝う日で、今日もみんながやってくる。指導の先生が二人きて通所生は 孝をふくめ4人くる。 一人はダウン症の「ちぃちゃん」、からだの大きい「大柄(おおつか)くん」、 こっそり休む「堀口くん」、そして余計なことや、なんでも気にする 「孝くん」がやってくる。
ちぃちゃんはついていないと仕事は進まない。 でも5年前から比べればすごい、今は一輪車をうまく引くことができる ようになった。今年新しく入った先生のおかげだ。大柄くんはなれたもので ひたすら黙々と仕事をこなしていく。堀口くんはすばやい。そして休む。 休む前には必ず両手があがりダンスが始まる。孝くんは目が会うとかならず 「どこで買ったの?」 の言葉が出てくる。そして一輪車を動かすとき「オーライ、オーライ」と いわないと気がすまない。そして私が「またね」といわないと次の仕事が 始まらない。
きょうはお客さんが来た。「たかしくんはここで仕事してるのですか」と聞く。 週に2回来ます。どちらですか?小学校で孝君を見ていたのでという。 特別学級の先生だった。なつかしいですね。孝くんは昔とかわらない。 先生は退職され、今は登校拒否の中学生のめんどうをみている。今日はその 子供達をつれてきた。みんなうちの愛犬と遊んでいい顔しているようだ。 孝くんは忘れているようだが先生には忘れられない子供だったようだ。
かたくりの家では野菜、花、簡単な室内作業、をしています。

笑わないでください。俺はアニメのハイジに出てくる おじいさんが好きです。 なんとなく性格も似ていると自分で勝手に思っています。 そういえば犬はバーナードでしたが自分も17,8年2頭、飼ったことがあります。
子供のころ小学校に行くとき谷合大工の作業場の横を通ると作業場の中から トオルが通るという声がしてきた。マーちゃん大工のおじさんだ、、、 朝も午後も顔をあわすとかならずおじさんはトオルが通ると大きい声でいう。 何となく恥ずかしかったり、どきどきしたり、こっそりと交わしたりとその作業場を そんな感じで通り抜けた。そんなおじさんが好きだった。
近くに住む龍さんというおじさんがいた。龍さんは奥さんを早く亡くしひとり暮らし だった。体が動けるときは牛も飼っていた。やさしいおじさんでうちが忙しい時は 仕事を手伝ってくれるおじさんだった。畑でおじさんに会うと「今日はいい天気だ」 と始まる。そして「頑張るね」と声をかけてくれる。晩年は養子をもらったが 体が動かなくなり亡くなってしまった。葬式の日、牛小屋で霊柩車を見送ったとき 涙が止まらなかった。
遠い親戚のおじさんが高校時代によく朝からうちに 来ていた。 おじさんは生きてるうちは仕事をすることだいう。そんなんでうちに来るように なった。庭を片付けが始まり、その頃はまだ我が家は長州風呂という釜のような お風呂だったので薪割りが始まった。縁側でお茶を飲み始めると色んな話を してくれた。そんな中で、、亨さん賭け事はやっちゃだめだよといわれた。 おじさんは若い頃賭け事をやって財産を無くしかけたことがあるという。 でも、そこまではやらなくて良かったという話は忘れられない。
そんなことを考えていると、、、 小学校の子供たちがやってきて牛の話をするがそんな子供達に 自分達の大事なおじさんになり得るだろうか????
自分の知る由木(1)

昭和29年にこの由木堀之内寺沢で生まれました。
そのころの由木は純農村地帯と言っていいところです。 私の家は父親で3代目の酪農家、と言っても乳牛だけの仕事では なく養蚕や椎茸の栽培、たんぼ、秋には麦を播いていました。 私がまだ4,5才のころは養蚕も盛んにやっています。今も住んでいる 母屋の作りが養蚕、カイコをするための作業場になる家です。 1階の部屋は畳をはずして板の間にしてカイコの棚が置かれ、幾つもの 層に桑の葉をひきそこにカイコさんが育っていきます。夜になると桑の葉を 食べている音が耳元まで聞こえてきました。2階もカイコの部屋でした。 もうこの住んでいる母屋も70年目ぐらいになります。 この頃の牛小屋は今と違って家の敷地に建てられ10頭ぐらい飼育してます。 そして、ここ寺沢の酪農家は全部で12軒あり、道沿いに12軒並んでいたので 酪農銀座と呼ばれたほどでした。そのころの搾乳はバケット式搾乳機という もので、バケツの上に搾る機械がついているもので搾っていました。 そして、牛乳を冷やさないと腐ってしまうため由木のどこの部落にも集乳所と いう施設がつくられていて42キロ入る缶に入れ、その集乳所へ持っていき 冷却装置のついた水槽で牛乳を冷やしたのです。 そのころは集乳業者がなかったので寺沢の牛乳をうちのトラックで八王子の 子安町にあった明治の工場に毎日運び、帰りがけに市内の豆腐屋さんの おからを集めて牛のエサにしてました。明治の工場で乳製品をよくもらって いたのが懐かしいです。工場までは野猿街道で野猿峠をこえて行きましたが まだ、北野台の団地はなく道の西側は谷で土手の上を走る感じです。 この頃の路線バスは桜ヶ丘駅から八王子駅までの1本の路線で行ってます。 まだ、由木折り返し場はありませんでした。
自分の知る由木(2)昭和40年の頃まで   酪農銀座

地図をみてもわかるように牛やさんが並んでいる。この頃には養鶏場もあった。 朝方になるとニワトリの声がよく聞こえた。この頃は隣に養鶏場があっても 不思議に牛やさんの庭に鶏小屋があり卵を採っていたのだ。 1軒で飼う牛は5頭から10頭ぐらいだろうか、我が家の場合は10頭の小屋と 何頭か入れられる牛小屋が母屋の前にあった。朝、牛の餌くれと搾乳が終わると 家の西側につくっていた運動場に昼間は外に出していた。最初はひもで誘導 しなければ出ることも入ることもできないが、小屋に入ることで餌がもらえることを おぼえてくると牛も学習をする。運動場の柵をはずすと自分で入っていくのだ。 その牛たちを子供の頃から見ていた。 牛乳は搾ってそのままにしておくと細菌が増えて腐ってしまう。まだこの時代には 個人で冷蔵施設はなかったので地域ごとに集乳所がつくられていた。牛から 搾られて牛乳はろ過布に透し、缶に入れる。集乳所に持っていくまでは井戸水で 冷やし、搾乳が終わるとそれぞれの家から集乳所へ運ばれてきた。
家の様子
我が家のかたちはこの辺で一般的な昔のかたちだろう。 母屋は養蚕の作業場に変身する事ができ、その時期には必要な物を 蔵に置いたり、米を保管する場所でもあった。子供のころ、悪いことをすると 蔵に入れられるのがすごく怖かった。 物置があり、そこにはむしろがたくさん置かれていた、むしろはもみの天日乾燥に 使われていた。もみすりをやる前に庭一面にむしろが引かれもみを広げた。 室がある。ここは湿気があるので、お茶の収穫したときや、桑の葉っぱをここに 置いていたり、ぬか漬けの樽やみそ、醤油も家で作っていた。 我が家には長いほらあながあった。3,4代前の頃は水で苦労してたのだろう。 今はコンクリートの壁で覆われてしまったが排水のための口があるが台風が くるとゴボゴボと水が出てくるのだ。

最後にこのころにあった運動場の横に大事にしてたケヤキがひょろひょろだった のが今は牛小屋の横で15メートルの高さぐらいに大きくなった。



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