★☆潤いと安らぎの活きづく街☆★
潤いと安らぎの活きづく街 ―― ゆぎ・・・多摩丘陵には話題が豊富です。そんな地域の中で1人1人の想いをつづる町づくりが始まろうとしています。
きょう、、、ある事務所で、、、地域に関わる本を見つけました。 とてもわかりやすいので、、、引用します。・・・・由木土地区画整理事業誌から
由木・・・潤いと安らぎの活きづく街 ―― ゆぎ
豊かな森と大栗川の恵み
今から約5000年前、堀之内に大きな集落があった。 多摩丘陵の一角に人が住みはじめたのは、南関東では最も古い 時期で今から5万年前といわれ、1万年より以前の旧石器群が、 多摩ニュータウンの遺跡では100ヶ所以上も発見されてます。この 時代の人々は、丘陵を移動しながら、動物や木の実をとって暮らし ていました。
やがて縄文土器が発見されると、食物の煮たきや煮沸ができる ようになり、アク抜きや食糧の長期保存が可能になって、人々は 定住するようになりました。大栗川流域の日当たりの良い南面に は、台地を中心に集落が発達しました。崖下の谷筋からは湧水が 流れ出し、水を求めてウサギやシカ、イノシシなどが集まってきた し、後背地にはドングリやクリなどの実のなる木が繁茂し、魚や 貝をとるのにも便利でした。
発掘調査によれば、今から約5000年前の縄文中期、堀之内には 多摩ニュータウンでは最大の集落が営まれていたことがわかって います。大栗川流域を支配する中核的な存在として。竪穴住居跡 が確認されています。台地下の泥炭層からは植物の化石もたくさん 発見され、今とは比べものにならないほど、豊かな森があったことが 想像されてます。
今から約5000年前、堀之内に大きな集落があった。 多摩丘陵の一角に人が住みはじめたのは、・・・・・・・・
おっさんのhpから、、、
関東地方でも有数の縄文時代の集落と墓が見つかったのだ。 私の家から1kmも離れていないすぐそばで重大発見があった。 以前、そこは小さな丘で町会会館の裏手の畑だった所で、大昔、 たくさんの人が住んでいたらしい。大栗川流域で寺沢川が 合流する所の西に山と川の幸に恵まれた日当たりの良い台地で 多摩ニュータウン内では最も大きな縄文中期(5000年前)の村で 中央広場の墓こう群(墓)があり、それをとりまくように竪穴住居が 200軒も重なって出てきたという。そしてここから発見された 縄文土器(祭りに使う仮面やふめがめや水差し)が他よりもたくさん、 たくさん出てきた。それは今、多摩センターにある東京都埋蔵 文化財センターに保管されている。私も興味があった。 センターの人によればこの辺は他から比べると多くの人が 住んでいたらしい、多摩丘陵の自然は地形が複雑で色々な 植生が育ちやすい自然が豊富な所で最適な古代のニュータウンが 形成してたらしい。そして今、この場所は貴重な遺跡を残すために 土をかぶせて現状保存し、児童公園になっている。まだそんなに 時間はたってないが忘れられつつある。
出土した場所は八王子市堀之内でNo72遺跡群です。この集落は 12軒の家族が700年続いたと考えられています。
堀之内駅から、、、別所方向は左、、、その反対方向にいき レッドバロン(オートバイ)のうらを右に行くと左側に公園が ある、、、そこがNo72遺跡群の場所です。
堀之内の縄文遺跡(多摩ニュータウン No 72遺跡)
http://www3.tnt-net.co.jp/ossan/yugi/jyoumon/hakutu.htm
由木の語源は・・・・・
由木は柚木あるいは由儀とも書かれ、語源はいろいろな説があります。 柳田國男は「木綿以前の事」という文章の中で日本人の衣服の歴史に触 れ、私達の祖先が用いた絹、麻のほかに、現在では紙の原料として知ら れる楮(こうぞ)の繊維を布に織って用いたのではないかと述べていま す。そして、こうぞの中でも優等な品を神に供えたことからその布を「ユ フ」と呼ぶようになりました。しかし、こうぞは自由に採取できるほど山野 に自生してなかったので生産地は保護され、ユフの産地を意味する由ノ 木(由木)と呼ばれるようになり、類似の地名は全国に見られます。また、 ユズのことをユーまたはユヒというので柚子の里という説もありますが、 木綿(ユフ)以前の衣服という説のほうが歴史的な重みがあるようです。
子供の頃から、、、、よくいわれてるのは、、、 由木には柚の木がどこの家にもあったことから、、、柚木、、、、由木と ついたと聞いてます。 ユフというのは、、、ここではじめて知りました。
俺の知ってる、、、他の由木、、、 青梅市の梅郷の先に柚木と言う地名があります。多摩川沿いの北斜面で 奥多摩街道が通ってます。
●奈良時代には、渡来人の文化が伝わる。
大化の改新(645年)によって古代国家の体制が整えられると、日 本は60カ国に分けられ、現在の東京・埼玉全域と神奈川の一部を 含む地域が武蔵国と定められました。 武蔵国の国府は現在の府中市におかれ、武蔵国分寺(現国分寺 市)が建てられました。国府に選ばれたのは、太古より人々が住ん だ豊かな土地であり、多摩川の両岸に一定以上の文化があったこ とによるといわれてます。国府や国分寺を中心に、屋根瓦や日常 生活に必要な食器などの需要が増え、南多摩地域は生産と供給 の基地となりました。 大栗川の源流にある鑓水には、大陸からの渡来人の指導により、 硬質の須恵器の瓦を焼いたという記録があり(746年)、大栗川 を遡って文化が伝わっていたことがわかります。 府中は政治・経済・文化の一大中心地となり、道は国府を中心 に、南から北へと開かれ、北は現在の埼玉県から群馬県、新潟県 へ、南は町田市から神奈川県平塚方面へ通じていました。
瓦工場は、、、最近見つかってます。
●武士の台頭と由木氏
平安時代の中期になると、有力な貴族達は地方にそれぞれ私有地 を持つようになり、領地を守るために武士が台頭し、最初は自衛的な ものから、次第に領地の拡大していくようになりました。 武蔵国では、「武蔵七党」が生まれ、その一つである西三郎宗貞が由 木姓に改め、由木堀之内に住むようになりました。(保延年間・1135 〜1140)。堀之内の地名は、平地の館の周囲に堀をめぐらせたこと から名づけられたものです。その後、横山党の横山六郎保経が由木 姓に改めて下柚木北部に住むようになり(保元年間・1156〜1158)、 殿ヶ谷戸と呼ばれるようになりました。また、多摩丘陵は馬の牧畜が 盛んで、小野牧などのそ勅牧が多く、馬を引いた防人たちが多摩の 横山の各峠を越えて、西国と往来してました。
それで堀之内とついたんだ、、、
2つ地名の由来がわかったぞ!!
昔から、、、家畜に適してたのだな、、
●いざ、鎌倉の道
11世紀から12世紀にかけて、次第に勢力を伸ばしてきた武士達 を統率して武家の権力をうちたてたのが、源頼朝です。源頼朝が 建久3年(1192)、鎌倉に幕府を開くと、越後・信濃・上野諸国から 府中を通って鎌倉まで、幾筋もの道ができました。 鎌倉街道とは「いざ鎌倉」というときに、関東の武士が自分の郷村 から鎌倉までつっ走った道のことをいい、鎌倉古道とは幕府が鎌倉 と武蔵府中を直結させるために開いた道といわれてます。
鎌倉街道、、、どんどん変わってる、、!!
●平安時代に創建された古刹 蓮生寺
「吾妻鏡」にも記録のある八王子市別所の蓮生寺は、源頼朝の護 持僧だった円浄坊が、寿永元年(1182)に建立したという古刹です。 この遺跡からは、建物跡や鍛冶場跡、井戸などとともに国産の陶器、 中国製青磁碗、白磁碗などが発見されました。このことは、平安時代 にすでに、この地に寺を建立し、運営できる豪族がいたことを示して います。
蓮生寺本尊の木造慮遮那仏座像は平安時代の作で、昭和 36年(1961)、薬師如来立像などとともに(計13点)、都の文化財 に指定されました。
古刹(こさつ)・・・・・古いお寺のことをいうんだね
「刹」は寺のこと。だそうです。
八王子市別所の街を歩く
http://www.natsuzora.com/may/park/renshoji.html
http://www.natsuzora.com/may/park/bessho.html
http://www.natsuzora.com/may/town/bessho-seseragi.html
南多摩地方では、室町から戦国時代にかけて多くの在地武士が生ま れました。その代表的な豪族が木曽義仲の後裔(こうえい)といわれる 大石氏です。上杉氏の重臣で室町時代に武蔵国守護代を長く務め、 その領地は北は武蔵国比企郡(埼玉県)から南は相模国大住郡 (神奈川県)までに及んでいました。
由木には、室町時代の大石氏に関する史跡や伝承地がいくつも あります。その一つが永林寺一帯であり、境内の奥には「由木城址」 の碑が建ってます。
大石氏のうち、滝山城主だった大石定久は深く仏教を信じ、一族の 僧長純を開山として、天文16年(1547)、永林寺を開基しました。 永林寺の寺域は3万坪をこえる広さでした。その後、大石定久は小田原 北条氏に破れてその配下となり、北条氏照を養子に迎えました。 定久は、天正18年(1590)、猿丸山(野猿峠)で自刃したといわれ、 現在、永林寺本堂裏手に定久の墓があります。
最終的な伽藍の完成は北条氏照の力によるといわれ、当時は永麟寺と 称してました。その後、小田原北条氏が滅亡し、徳川家康が江戸に 幕府を開きます。徳川家康は永林寺を訪れたとき、「名におえる永き林なり」 とその景観をほめ、「麟」を「林」に改め、御朱印地十石を賜ったと伝えられて います。中雀門には徳川家の家紋が残っており、家康が北条氏の家紋で ある三つ麟を嫌ったという説もあります。江戸時代の古図によると、建物は すべてかやぶきで、中雀の門の左右に回廊がめぐらされています。
昭和40年(1965)に大改修を行い、朱の塗り替えを施して現在に至って います。 また、大栗川右岸の西南からのびてきた台地の上には、かつての大石信濃守 の屋敷(大石館)跡といわれ、その一角は現在「大石やかた公園」となってます。
大石館は今でいうと、、、いなげやと由木中のあいだぐらいと見て下さい。 野猿峠、、、猿丸山っていってたんだね、、、まるで人形劇に出てくるような 地名だな、、、、
永林寺に行ったことありますか、、、、立派だよ、、、
でも、、、歴史に出てくる家康が永林寺って付けたんだ、、
永林寺(えいりんじ)
http://www.cec.co.jp/CEC/freeway/eirinji/
歴史を刻む峠道
http://www.cec.co.jp/CEC/freeway/kinunomiti_siryokan/kinunomiti.html
八王子市・多摩市・町田市・・・・・とその近郊地域の雑木林へのIndex Pageです。
http://www.natsuzora.com/may/park/index.html
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由木土地区画整理事業誌から